落合博満氏の著書には「本質」「そもそも」「原則」という言葉がよく出てきます。本質的な物事の考え方は、野球という切り口からでも、会社経営という切り口でも、同じところに辿り着くと思います。
「ユニフォームで考える物事の本質」という章の最後には、
『ユニフォームに関する話題を通して私が考えてもらいたいのは、その物事の本質はどこにあるのかということだ。社会人野球のさらなる発展に、ユニフォームの形は重要か。チームを強くし、選手を育てるためには何種類ものユニフォームを着ることが必要か。もう一度、考えて頂ければ幸いだ。』
とあります。
いろんなしがらみ、背景、人間模様、歴史などが重なり時間が過ぎていくと、物事の本質から外れていく傾向にあります。しかし、一時的に本質から外れてしまったとしても、「本質」が分かっている、あるいは、分かろうとして努力を重ねていれば、時間はかかるかもしれませんが、再び「本質」に戻ってくることができます。
『知人に「なぜその仕事をしているのか」と尋ねてみれば、その人の思いや価値観で、いろいろな答えが返ってくると想像できる。私自身は「生活の糧だから」が正解、あるいは原則的な答えだと思う。』
『「やりたい職種ではないけれど、ここでがんばれば道は開けるのかもしれない」。仕事は生活するためにやるものだという意識があれば、そう考えられる。また、「新入社員はトイレ掃除が日課だ」と言われた時、「なんてことをやらせる会社なんだ」と嫌々やるか、「どうせやるならトイレをピカピカにしてやろう」と思ってやるかで、人生の風向きは変わる。』
トイレ掃除という事例自体は、今風ではないのかもしれませんが、仕事は生活のためということを示す上では、本質的な事例とも言えます。
決断に迷うとき、まずは「本質」や「原理原則」に立ち返ってみること。しかし、そこに立ち返ることは時に困難を極めます。ゆえに、私自身も、落合氏の書籍を読みながら、自分に厳しく本質を追求していくことの努力を忘れないようにせねば、と思います。そこには本質的で本物の「会社経営」の姿があるような気がします。
『大谷と私の感性や価値観は違う。生まれた時代、育った環境が違えば同然のことだろう。私は三冠王にこだわり、大谷は二刀流を目指す。そんな大谷を北海道日本ハムはエンゼルスが必要としたのだ。それでいい。私には、自分とまったく違う道を突き進む若者が何を見せてくれるのか、その楽しみしかない。プロフェッショナルの世界とは、先人が打ち立てた偉大な記録を塗り替えていくものであるのと同時に、誰もやったことのないパフォーマンスを見せていくものでもあるのだ。』
プロとして目指す本質。
プロの野球選手だけではない。様々なジャンルにおいて「プロ」を自称・自認する人が目指さねばならない本質。私がプロの経営者として目指していかねばならない本質もまた同じ。
ただ、プロ野球観戦していて途中熱くなり過ぎ、時として「本質」を見失ってしまう自分がいることは認めなければなりませんが。。。