「現代語訳『論語と算盤』」渋沢栄一著

「現代語訳『論語と算盤』」(ちくま書房)渋沢栄一著

NHK大河ドラマ「青天を衝け」では「日本資本主義の父」たる渋沢栄一氏が主人公。『論語と算盤』は読んだことはありましたが、かなり時間も経っているので、その細かな部分の記憶を呼び戻すため再読することにしました。

正論、道理、本筋、王道、本質、、、そのような言葉が相応しい『論語と算盤』。日本資本主義の父の言葉は、実業に携わる私の心にも響いてきます。そしてまた、私自身未熟なところを諭されている、、、そんな感じもします。

われわれも明治6(1873)年ごろから、物質文明の進歩に微力ながらも全力を注ぎ、今日では幸いにも有力な実業家を全国至るところに見るようになった。また、国の豊かさも大いに増大した。ところが何としたことか、人格は明治維新前よりも退歩したと思う。いや、退歩どころではない、消滅すらしないかと心配しているのである。どうも物質文明が進んだ結果は、精神の進歩を害したと思うのである。

世間一般における教育のやり方を見てみると(特に今の中等教育が、その弊害がはげしいようだが)単に知識を授けるということだけに、重点を置きすぎていると思う。言葉を換えれば、道徳を育む方向性が欠けている。たしかに欠乏しているのだ。

『論語と算盤』の初版は1916年。100年後の今でも同じようなことが言われています。となると、これから100年先の未来でも同じことが言われているんだろうなと想像します。

なぜなら、本質、だから。

だいたいにおいて人のわざわいの多くは、得意な時に萌してくる。得意な時は誰しも調子に乗ってしまう傾向があるから、わざわいはこの欠陥に喰い入ってくるのである。ならば世の中で生きていくには、この点に注意し、得意なときだからといって気持ちを緩めず、失意のときだからといって落胆せず、いつも同じ心がまえで、道理を守り続けるように心掛けていくことが大切である。

「物事を進展させたい」「モノの豊かさを実現したい」という欲望を、まず人は心に抱き続ける一方で、その欲望を実践に移していくために道理を持って欲しいということなのだ。その道理とは、社会の基本的な道徳をバランスよく推し進めていくことに外ならない。

現代の人は、よく口癖のように「意思を強く持て」という。しかし意志ばかり強くてもやはり困りものでしかない。俗にいう「猪武者(突き進むことしか知らない武者)」のような人間になっては、どんなに意志が強くても社会で役に立つ人物とはいえないのである。

正しい行為の道筋は、天にある日や月のように、いつでも輝いていて少しも陰ることがない。だから、正しい行為の道筋に沿って物事を行う者は必ず栄えるし、それに逆らって物事を行う者は必ず滅んでしまうと思う。

このような内容が『論語と算盤』の至る所にちりばめられています。昔も今もそしてこれからも。本質に根ざしているからこそ「永遠の啓蒙書」とも言えるかもしれません。

今月はじめ、福沢諭吉氏の『学問のすゝめ』を再読しました。その流れで渋沢栄一氏の『論語と算盤』も再読してみると、明治日本の近代化に尽力した二人が向かおうとしていたところにある共通する部分が見えてきます。生まれや育ち、価値観や考え方も大きく異なる二人であるにも関わらず。

なぜなら、本質、だから。

『論語と算盤』には福沢諭吉氏も登場します。

福沢諭吉さんのことばに、「書物を著したとしても、それを多数の人が読むようなものでなければ効率が薄い。著者は常に自分のことよりも、国家社会を利するという考えで筆をとらなければならない」といった意味のことがあったと記憶している。実業界のこともまた、この理に外ならない。社会に多くの利益を与えるものでなければ、正しくまともな事業とはいえないのだ。

そして、下記のような記述は『学問のすゝめ』にも通じる内容です。

学問の力を知りたければ、こう考えればよい。賢者も愚者も、生まれたては同じようなもの。しかし、学問をしないことによってたどり着く先が異なってしまう。

現在の一万円札の顔が福沢諭吉氏。

2024年に発行される予定の新一万円札の顔が渋沢栄一氏。

渋沢栄一氏 vs 福沢諭吉氏の将棋対戦があったというエピソードも聞いたことがあります。

日本の実業界の父、渋沢栄一氏。日本の教育界の父、福沢諭吉氏。

二人の書籍を読んでいると「学び」たいという気持ちが高くなってきます。世のため人のための「学び」。会社経営道にも通じる「学び」を。